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「悪魔」を売りにした天才バイオリニスト、ニコロ・パガニーニの惨憺たる⼈⽣と ねじれこじれの結末

皆さまいかがお過ごしでしょうか。更に暑さが増しているでしょうか。前回に引続き今回も夏に持って来いの「怪談話し」ではありませんが、フランス、ニースにゆかりのあるバイオリニストの惨憺たる⼈⽣についてお話ししたいと思います。

 

 

 

幼少期に受けた「悪魔」のお告げ

 

1782年、⽇本では江⼾中期、天明の⼤飢饉があっていた年に、イタリアのジェノヴァでニコロ・パガニーニは⽣まれました。パガニーニの⽗は港の労働者でその傍らでマンダリン弾きとしても稼いでいました。この⽗から5歳の時にマンダリンを教えられ、その他にもギター、そして7歳の時にバイオリンを始めます。⼩さい頃から病弱でしたが、体調の優れない時でも何時間もの厳しい特訓について来なければ暴⼒を受けたり⾷事を与えてもらえなかったそうです。パガニーニの⺟はパガニーニが5歳の時に奇妙な夢を⾒ます。それは、⾚い炎に包まれた劇場でパガニーニが悪魔と命を賭けた演奏勝負をしていると⾔うものでした。そこに天使が現れ、「彼は素晴らしいバイオリニストになる、そして名は世に知れ渡る」と告げたそうです。

 

当時すでにタルティーニ(イタリアの有名な作曲家・バイオリニスト)が夢の中でバイオリンを弾く悪魔を⾒たと⾔う話があり、世間ではバイオリンと悪魔のイメージがすでに結びついていました。パガニーニは⺟が⾒たこの「悪夢」または予⾔のような話を売りにしてその道を極めていきました。

 

 

 

魔⼒のような魅⼒

 

パガニーニが19歳の時、ある政治家に呼ばれイタリアのトスカーナ州にある⼩さな街の教会の儀式で演奏することになりました。28分間の演奏の中で彼は⿃の鳴き声やフルートの⾳、トロンボーンの⾳などをバイオリンでそっくり真似してみせました。その完成度の⾼さに観客は驚き、教会と⾔う静寂な場所にも関わらず笑い声や歓声まで上がりました。彼の有名な24の奇想曲(カプリース)も19歳の時に作曲し始めたそうです。

 

 

ここから27年間、彼はイタリア内でどんどん有名になって⾏きます。ナポレオン第⼀世の妹エリザの宮廷で演奏したり、エリザの旦那の講師もしていました。基本がしっかりとした演奏⼒に加え、「7つの戦術」を巧みに使っていました。弦のチューニングの仕⽅、⼸の動かし⽅、指で弦を弾く演奏法、⾼⾳の使い⽅や変化のつけ⽅、などなどです。今までにない演奏構成で⼈々を驚かせ魅了する⼀⽅、逆にそれを批判する評論家もたくさんいました。

 

彼の魅⼒はその容姿にもありました。⻑く波うった⿊髪にガチッとした四⾓い輪郭と⿐、ヒョロッとしていて、いつも⿊づくめの服装。演奏中は予想外で⼤胆な動きをし、酔っ払いのようだったと⾔うコメントも残っています。こうして「悪魔にとりつかれたバイオリニスト」というイメージが定着していったのです。

 

 

 

成功が欲と⾦と⼥と妬みをもたらす

 

 

パガニーニが46歳の時、彼の知名度はついにイタリアの国境を越えました。3年間でドイツ、ポーランド、ボヘミア、フランスなど50の街で125回コンサートを開き、たくさん稼ぎました。バイオリニストとしては前例のない稼ぎっぷりでした。稼げば稼ぐほど欲が深まり、チケットの料⾦も通常の2倍にしてみたり、わざと観客を⻑く待たせたりして、“付加価値”をつけようと企みました。

 

そんなミステリアスでカリスマ性のある彼にはいつもたくさんの⼥性がたかっていました。パガニーニは⼥性にギャンブルに、どんどん溺れて⾏きます。この様⼦に勿論たくさんの妬みと批判もかいました。3年間のツアーコンサートを終えた時点で元々病弱な彼の体はボロボロになっていました。しかしそれでも次はパリ、ロンドンと移動し活動を辞めません。これは同じようにギャンブル好きで、過剰に厳しく彼を育てた⽗親の影響が強いと⾔われています。幼少期に植えつけられた狂気的なチャレンジ精神がこの先もあだとなって⾏くのです。

 

 

 

病と⽀え

 

 

体調が悪化していっても更に⾝体にムチを打ち続け、52歳の時についに結核と診断されます。その前にも、40歳の時には梅毒と診断されていました。処⽅薬には⽔銀とアヘンが含まれていて、この⽔銀の薬は何年も服⽤していたそうです。結果的には⽔銀中毒だったのではないかと⾔われています。体調が悪化し仕事も上⼿くいかなくなってきたパガニーニを懸命に補助したのは、彼が42歳の時に、彼とソプラノ歌⼿との間にできた⼦供のアキリでした。もうろうとするパガニーニがあるお偉いさんと喧嘩になろうとした時に、まだ当時6歳だったアキリがさっと間に⼊り和解をさせたというエピソードが残っています。

そんな⽀えも報われず、さらなる不幸が訪れます。

 

 

 

最後のあがき 猫の鳴き声

 

 

1836年、パリでのカジノ建設案に声がかかりパガニーニは所有者の⼀員となりま
す。しかし運営の許可がおりず事業は⼤失敗に終わってしまいます。そこで彼は法的処分を逃れるためにニースに逃げました。(ニースは今はフランスですが、当時はサルデーニャ王国という国の⼀部でした。)それまでに稼ぎまくったお⾦も⼀瞬にしてなくなり、とうとう所持していた楽器まで⼿放さないといけなくなりました。

 

ここがパガニーニが住んでいたニースのアパートです。このようにして今でも存在しています。
⽯碑には、「1840年5⽉27⽇ニコロ・パガニーニの魂は、この家を後にして永遠の調和の源へと繋がり、魅⼒的な⾳⾊の⼒強い弦は横たわるが、ニースの⼼地よい⾵の中でその⾄⾼の優しさは今もなお⽣きている。」(魅⼒的な⾳⾊の⼒強い弦=パガニーニ。横たわる=亡くなる・埋葬される。ともとれる。)(訳:イタリア在住のハルミさん)
こんなに素敵な⾔葉が書かれているのですが、それとは裏腹に切実なエピソードが語り継がれています。それは、奇妙なことにここの窓から夜な夜な猫があがき苦しむような鳴き声がしていたのだとか。しかしそれは、⼼が落ち潰れ、ひねくれたパガニーニがバイオリンで真似して弾いていた⾳だったそうです。ご近所への嫌がらせです。とても反感をかい嫌われていたそうです。

それから間も無くして、パガニーニは突然の体内⼤量出⾎で亡くなります。57歳でした。この不吉な死に⽅と彼の「悪魔」のイメージのせいで、どこの教会からも埋葬を断られ、約2年間遺体は友⼈の間を⾏ったりきたりし、⼀度は違法的に個⼈の⼟地に埋葬されるのですが、それから3回ほど場所を移し替えられ、死後36年後やっとイタリア北部のパルマの墓地に埋葬されます。そしてそれからまた20年後、パルマの別の新しい墓地に移され今やっと静かに眠っています。

 

パガニーニは「悪魔」のイメージを⾃ら商売道具にし、⺟が⾒た夢を⾒事に実現させました。しかしご覧の通りそのイメージは彼を良い⽅にも悪い⽅にも導きました。とうとう死ぬ間際、彼はどんな気持ちだったのでしょう。パガニーニの⼒作を良かったら是⾮お聞きください。悪魔のイメージとはまた違う感性豊かな表現者としてのパガニーニを聴き取ることができます。この夏の暑さが和らぐぐらい素敵です。

 

 

 

P.S. 私がパガニーニがニースにゆかりがあることを知ったのは街歩きツアーからでした。その⼟地その⼟地に隠れた⾯⽩い話がたくさんあります。と⾔うわけで前回に引き続き、熊本の街歩きツアーをお勧めします。
熊本市観光ガイド: https://kumamoto-guide.jp/ (街歩きや体験プログラムもあります)
8 月10日からは熊本城で、肥後朝顔展があってます!

 

 

 

Writer
マキコ 1988 年熊本県生まれ。白川中学校を卒業後カナダへ。公立高校卒業、芸術大学卒業、キッズアートスクールで働き、バンクーバーの雨にうんざりしたのとカナダ滞在 10 年を区切りに帰熊。文房具屋、発達しょうがい児支援所、味噌・醤油・酢屋、熊大の非常勤講師、クラフトビールバー、個人的に英会話を教えるなどして、色々な職業を経験。今度はヨーロッパへの好奇心が押さえられなくなり、フランスで最も太陽が照る街ニースへ。ビラ・アーソン芸術大学院に就学中。

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